池袋PARCOの浮世東京のポスターを見てタカセの喫茶店でサバランとアイスコーヒーを頼んで目が覚めた。

Notionを漁ってると先月参加したシブヤピクセルアートのトークセッション“映画「ファイナルリクエスト」が出来るまで”の本番に向けて前もって備えていた質問の回答とかがまとめてあって、
ああ、これはこのまま電子の束の中に眠らせてくおくのは勿体無い。
この時の自分はこんな事考えてたんだという忘備録代わりに載せておく。

☕️

制作に参加した経緯を教えてください。また、参加した時の作品の印象はどのようでしたか?

日下さんと出会ったのは2016年頃にたかくらくん(たかくらかずき)が主催したピクセルアウトという展示でお会いした。
その時の展示もファイナルリクエストだった。なのでその時の感想を言うと、ファミコンの色数制限に絞ったグラフィックを描かれているだけでなく漫画という媒体で物語を作られていて純粋にすごいなと。。今でこそメタ的な視点の物語は多いけど、当時はまだUndertaleみたいなゲームもまだ日本で知られていない状態だったと思うので斬新だったと思う。
(また、当時制作したPulseFighterのMVをハードの再現性の視点で褒めて頂けてとても嬉しかった記憶)

映画内に出てくる「プログラム領域」のデザインについて、
一般的なプログラムのコードや具体的な物理空間のイメージを
どのように取り込んでデザインしたのか?

プログラム的な世界観に関しては元々自分は昔バグをテーマにしたゲーム(BUGTORNICA)を出していたことがあって、そのゲームは主人公の視界がバグって世界を構成する要素が記号や数字の羅列に見えるという内容だった。
ファミコンなど古いゲームの作り方でマップチップやタイルを並べて大きな絵を作る手法があってそういった世界観がその作品の根底にはあったので日下さんからプログラム領域のブロックというオーダーを頂いた時はすぐにイメージを理解できた気がする。
デザインの方は当時のメール(※実制作はコロナ下の2021年頃)を見返してみると古代文字をベースに機械やSF感の要素を足して○△◻︎のシンプルな図形(このあたりは私は真吾の影響もあるのですが)をイメージして打った形です。

ドット絵の表現が多様化する中で、『ファイナルリクエスト』のドット絵表現はどういった位置づけや意味を持つと考えますか?

ドット絵ブームという流れが出てから今は更に時間が経っているけど、そのブームの入り口として若い世代の人たちに認識されていたのは、(あくまで自分の解釈ではあるけど)ゲームの文脈からはすこし距離が離れたドット絵だと思っている。主に情景が主体となった作品、アニメや映画の一場面のような物語性を持つ絵。

それに対して『ファイナルリクエスト』は、ゲームの文脈をしっかり土台に置いた表現で、つまりドット絵をリアルに体験してきた世代にとっての表現でもあると思う。

そして現在のドット絵はひとことでは括れないほど多様化していて。そういう感度が熟してきた新しい世代にとって、この作品は世代間をつなぐ架け橋のような役割を果たせるんじゃないか。少なくとも自分はそうなってほしいと思っている。

現代のツールや技術を活用することで、
新しく可能になったドット絵表現というのは、
どんなものがあるのでしょうか?

自分は特別に新しいツールを使っているわけではなくて、ずっとPhotoshopで打っている。なので「新しいツールだから新しい表現ができた」という実感はあまりない。

ただ、当時リアルタイムでドット絵を打っていた世代から見れば、現代はツールや環境が整っていて、誰でも気軽に始められるようになった。その意味で“敷居が下がった”のは大きな変化だと思う。(自分もその恩恵を受けている側)

一方で、“ドット絵そのもの”をどう見せるかという点では技術の進化があると思う。たとえば3D空間と融合させるHD-2Dのような表現、ブラウン管やアーケード筐体を通した媒体再現は新しい技術によって可能になったものだと感じる。

別に新しい技術が嫌いなわけではなくて、むしろ興味がある。
ドット絵に限らずデジタルの媒体は、作品そのものだけでなく視聴体験まで含めて表現の在り方を問われる時代になるかもしれない。
今はSNSのタイムラインで流れるように作品を消費するのが普通だけど、それがもっと別の形になる可能性もある。そうした部分の技術は自分もアップデートしていけるようにしたい。

“ドット絵ネイティブではない世代”にとって、
どんな部分がピクセルアートの魅力として受け入れられていると思いますか?

ドット絵を打っている若い世代だけではなく、ドット絵をファッションやビジュアルの一部として受け入れている層も含めての見解ですが、ピクセルアートは“絵のタッチのひとつ”として受け入れられているのではないかと思ってる。(極端?)

筆で描く、クレヨンで描く、マジックで描く、或いはインスタントカメラで撮ったフィルムの写真やビデオテープetcそうした表現の質感の1つとして見られているのではないか。

当時のリアル世代にとっては、ドット絵は“本物の絵があるように見せるための技術”だったと思う。でもブラウン管から液晶モニターになったことで、1ピクセルそのものの存在感が際立ち、逆に新鮮に見えるようになった。

ドット絵は純粋にデジタルでしか生まれない表現でありながら、筆や絵具のように“手触り”を感じさせる不思議な立ち位置にいて、デジタルでありながらアナログ的。その絶妙な立ち位置がドット絵ならではの魅力になっているのではないか

もう一つ自分の中で大きいのは、(これは度々言ってることになるけど)デフォルメやシンボライズの魅力がある。ドット絵は情報を整理して限定することで、見る人の頭の中に想像の余地を残す。
僕自身、昔はゲームボーイで遊んでいて画面の中の記号のようなグラフィックから世界を想像するのが大好きだった。
そういう「想像を促す表現」という部分も、今の世代に届いている部分があるのではないかと思う。

高解像度で写実的な映像をいくらでも作れるのに、あえてドット絵が広告で使われているケースが増えています。
その背景にはどんな理由があると思いますか?

広告の視点で考えると、まず大きいのは月並みな答えで申し訳ないが世代へのノスタルジーだと思う。特にドット絵をリアルタイムで体験してきた層に向けては、「あの頃の記憶」を呼び起こすフックとして強い効果を持っていると思う。

一方で、若い世代に対しては必ずしもノスタルジーではないし、そこはさっき言った「タッチのひとつ」としての魅力、あるいはシンボライズやデフォルメの面白さが働いているじゃないか。
広告を届けたい対象によって、ノスタルジーと質感表現の両方が強みになっているんだと思う。

技術や環境が変わっていく中で、
ドット絵という表現はこれからどんなふうに
受け入れられていくと思いますか?

正直、ドット絵はもうすでに十分受け入れられていると思う。僕自身が大月さんと映像作品を作り始めた10年以上前から、「いつドット絵ブームは終わるんだろうね」と話していましたが、結局その翳りはなく、むしろ今では大衆化した表現になっていると感じる。

これからあるとすればジャンルの細分化じゃないか。
音楽にロック、プログレ、オルタナティブと枝分かれがあるように、ドット絵もひとくくりではなく、多様なスタイルや文脈に分かれていくかもしれない。これは希望的な見方でもあるけど。

話がずれるかもしれないけど、生成AIの存在が怖い。
ドット絵に限らずクリエイティブ全般の問題。
もちろん、最近で言うと自撮りとそれを元に生成したドット絵を並べたり自分の姿をフィギュアのように変身させるなど、多くの人が楽しめるクリエイティブの敷居を下げるようなポジティブな使い方もあると思う。

ただ、作品をつくる上では「手探りの過程」や「試行錯誤の背景」こそが大事になってくる。見た目の美しさだけではなく、その背後にある営みや意味がこれからの時代はより強い価値を持つのではないかと信じたい。。

最後に引き合いに出してるけど、生成AIが怖いね。
これを書いたのは先月だけど、その時はフィギュア変換でキャッキャッ言っていたのが今ではSora2の動画生成で賑わっている。
2つ前の日記で書いたGoogle社で行われたGeminiの動画生成クリエイティブで教わったプロンプト術やコツも吹っ飛んだ。追いつき追い抜かれの世界で目まぐるしい。
目まぐるしいが惑わされてはならない。

思うんだけど、惑わされる事が増えてないか?
TLに油断すると溢れ出る流行や話題は何が本物かは分からなくなった。自分が信じられるのは実際に顔合わせる友達や尊敬する人の言うことだけになった。そんな事を思う。

自然の脅威や肉体的捕食者とか物理的な恐怖に対し知能で生き抜いた人間は、今度はその知能が産んだ精神的な捕食者に向き合わなくちゃいけない。
まるで太古の昔に持っていた野生的な危機感をもう一度研ぎ澄まして生きていく感覚。それはある意味刺激的でゾクゾクする。

人間なんか一度AIが産卵し続けるショート動画で脳味噌を焦がされてしまえと思う。
そしたらきっと価値について考える事ができるから。