ロクジョーヒトマリブートにあたって

ロクジョーヒトマを作っている。
昔出した携帯電話の作品、なぜまた作り始めたのだろう。
3月下旬、MotionRecのThe Strong National Museum of Playでの展示遠征や、Switch・PS5版の発売準備を終えて、自分のやる作業は少し落ち着いてきた。
そんな中でこれからまた何を作ろうかと考える時間が増えてきた。
テクノロジーによって人が人を必要としなくなってしまうんじゃないかという漠然とした不安、現実味を帯びてきたクリエイティブの変化。
すごいという技術だけでは難しい、そんな時代が来ているとひしひし感じている。
理屈抜きにすごいと思われる事は誰でも出来る、出来るというか「誰でも出来るように見せる」ことが可能となった。
タイムラインに途切れる事なく溢れる驚きや興奮に自分はもう脳を焼かれてしまってる。
終わらないキャンプファイヤーみたいにギラギラと炎は燃え続けていて、その熱に当てられ続けて炭化する前に自分は何を大事に思う事ができるのだろうと考えるようになった。
なったというか、ただ、これはAI云々以前から感じていたことなのかも知れない。 イラストレーションの仕事だって代わりのいるような仕事ではなく自分にしかできないことを魅力にしなくてはと常々思っていた。
何がクリエイティブとして残るのか。
おそらく人間らしさ、その個人を象徴とするらしさ。手触りや偏愛やそして物語だろうと思う。
人は何を大事に思う事ができるだろう?
自分にとって特別だと思えるもの、手のひらの中の価値観、そして形に出来ないもの、簡単には他者にその価値を伝える事ができない、伝えようにも沢山の試行錯誤が必要となるような手探りの過程じゃないか。
それは信仰と言えるかも知れないし小さな祈りの様なものだと思う。
自分は自分の外側にあるものに対して一喜一憂して感嘆して感情を消費し続けていたくない、感情は消費するだけの物ではなくて育むものだと思う。

だから今、自分の中を通り過ぎた過去の作品を再びリブートさせようとしているのだろうと思う。
ロクジョーヒトマでは何が出来るだろうか。
まだ規模としては分からないけど、日々のクリエイティブをクライアントワークだけではなくて自分のプロジェクトを大きく動かそうとしている。
自分にしかできないものを通して世の中とコミュニケーションする必要がある、それが今の自分にとって必要なクリエイティブだと思っている。
それを育むには自分の手の中にあったものを再び見つめ直す必要があった。 それがヒトマだったと今は思う。
Griptureの様なこれからの物語は今の自分だと、きっと作為が入ってしまう(出来ることなら誰にも見られない洞穴の中で粛々と作っていきたい)、ロクジョーヒトマなら完結した物語だから伝えることに注力することが出来る。
それに十年以上前の青臭いセリフを見つめるのも個人的には楽しい。見つめ直しにはちょうどいい。

そういった手探りの過程は制作方法についても同じなのかもしれない。
ロクジョーヒトマの制作にはGameMakerとAI(Antigravity)による実装補助を行なっている。
勿論それは作品の判断を自分以外に預けてる訳ではなくて、今の環境で自分が出したい表現を形にするための道具として使っているのだけど、その事を人に伝える時、少し自分は葛藤を覚える。
技術や手段は変わっても、何を選んでどこに違和感を持ち何を残したいのかは自分で決めたい。
「誰でも出来るようになった」という言葉は自分にとっても例外ではない。
だけど、あくまで自分にとってAIは手段の1つであって欲しい。